マーク・ボーデが語る、グラフィティ黎明期から受け継がれる“ボーデの世界”
2026.03.02
米原康正率いる+DA.YO.NE.とSHADOW GALLERYのプロジェクトとして表参道のtHE GALLERY OMOTESANDOで個展「SUBWAY」が会期を終えたばかりのマーク・ボーデ。
彼の父、ヴォーン・ボーデが生み出したコミックのキャラクターは、70〜80年代にニューヨークのグラフィティライターたちによって街の壁や地下鉄に描かれ、ストリートカルチャーの象徴となっていった。父親が築いた世界観を引き継ぎながら、マーク・ボーデはアーティストとしてストリートとコミックという二つの世界をつなぎ続けてきた存在だ。
本インタビューでは、日本での展示への想い、80年代ニューヨークの記憶、そしてAI時代における新たな表現の可能性まで、たっぷりと話を聞いた。
――日本での展示は今回で2回目かと思いますが、今まで来日はどのくらいしているのですか?
「この1年でもう5回来日してます」
――1年で5回とは凄いペースですね! 日本のグラフィティ・アーティストで誰か知っている人はいますか? 日本のグラフィティやアーティスト、ストリートカルチャーにどのような印象を持っていますか?
「グラフィティアーティストのTabooとはとても仲の良い友人になりました。 彼は日本を案内してくれて、一緒にディナーに行ったり、ミューラルも制作しました。彼は良いレストランをよく知っていて、何を注文すべきかも分かっていました。料理のクオリティーの高さには本当に驚かされました」
――あなたはもともとニューヨークの出身ですか? どちらの地区ですか?
「ニューヨーク州の北部出身です。NYCから北に200マイルほど行ったところ。ユーティカで生まれて、シラキュースで育ちました」
――それからSchool of Visual Arts (SVA) でアートを学び、コミックの制作からキャリアをスタートさせたのですよね?
「そうです。父のキャリアを引き継いで、15歳でプロになりました。15歳の時に『Heavy Metal』誌で、初めてお金をもらって仕事をスタートしました」
――15歳とは若いですね。お父様はすでに亡くなられていたのですね。
「そうです。私が12歳の時に父は亡くなっています。「Heavy Metal」誌は父の作品に着色して欲しかったようで、編集部には自分の名前を言わず、母の名前を伝えました。若すぎて「いや、他の人に頼もう」と言われると思ったから。でも、とてもうまく仕上がって、ギャラも支払われました。私が若過ぎたから、最初のプロとしての仕事に自分の名前が載らなかったのです。こうして、15歳でプロのキャリアをスタートさせました」

tHE GALLERY OMOTESANDOにて行った個展「SUBWAY」
――今回の展覧会のタイトルは『Subway』ですが、実際にいつ頃からスプレー缶を使って地下鉄の車両に描き始めたのですか?
「地下鉄の車両に描いたことは一度もないんですよ。ドンディ(Dondi)や他のアーティストたちにも会いましたが、80年代を通して私は常にコミック・アーティストが本職で、彼らと一緒に描くことはなかったですね。彼らは父の作品のファンとして私のところに来ていたのです。だから彼らのことは知っていましたが、一緒に描くことはありませんでした。 私自身は、コミックアーティストとしてボーデ(Bode)の作品を出版して、地位を確立しようとしていました」
――なるほど。コミック・アーティストとして活動していたのですね。当時、特に親しかったグラフィティ・アーティストはいましたか?
「いましたよ。NYCでは、ドクター・リボルト(Dr. Revolt)です。 彼は私の先生の一人でした。それからゼファー(Zephyr)。 初めてペイントしに行ったとき、彼らが一緒で、テクニックを教えてくれたり、しっかり描けているか確認してくれたりしました」
――実際に壁か何かにスプレーしたのですか? どこで描いたのでしょう?
「クイーンズで描きました。 レディ・ピンク(Lady Pink)やゼファー、リボルト、ケース2(Case 2)といった有名な人たちと一緒に。 他にもエラティカ(Eratica)やクラーク(Klark)もいたかもしれません。もっといましたね。大きな壁で、私はそこで自分の最初のピースの一つを描きました」
――レジェンドばかりですね!
「実は、私が人生で最初に描いたグラフィティ作品は、80年代半ば、86年頃にサンフランシスコに行ったときでした。友人が彼の倉庫で、「壁に描きたいならいいよ」と言ってくれたので、知り合ったベイエリアのグラフィティ・アーティスト数人をよびました。 みんなで描き、それが私の最初のスプレー缶による作品になりました。たまたま、『Spraycan Art』を著したジム・プリゴフ(Jim Prigoff)がどういうわけかそのことを聞きつけて、私のところに来て、作品の前でポーズをとってほしいと頼んできたのです。 こうして、完全に名前の力だけで『Spraycan Art』に載ることになりました。
――なるほど。『Spraycan Art』の本、持っています。
「オートバイの横に写っている私の写真があります。 オートバイの横に私がいて、私の名前が見えます。当時は自分の名前すら(スプレーで)まともに書けませんでした。どれほどひどかったかわかるかと思います。それでも、私はドアにバストアップの女性を描きました。 それが私の最初のピースになりました。実は友人がそのドアを保存してくれていて、それをもらうことができたんです。 だから、自宅にはドアに描かれた私の人生初のグラフィティ作品があります」
――あの本の中に出ている絵で現存しているものがあるとは!
「そうなんです。『Spraycan Art』の掲載作品の中で現存するのはそれだけです。他はすべて塗りつぶされたか、なくなってしまいました」

『Spraycan Art』より掲載ページ
――私は当時『チーチ・ウィザード(Cheech Wizard)』のコミックには詳しくなかったのですが、『Subway Art』のような本でそのキャラクターを見ていました。いつ頃から『チーチ・ウィザード』がグラフィティのモチーフとして使われ始めたのでしょうか?
「父が亡くなったその年に始まりました。父は1975年7月18日に亡くなりました。その年の11月に、リー・キノーネ(Lee Quinones )が最初の『チーチ・ウィザード』を描きました。列車か何かに描いたのが最初です。父はそれを見ることはありませんでした。 父へのトリビュート(献辞)だったのです」
――なるほど。そのあと、多くの人がそのキャラクターを描き始めたのですね。
「はい。そこから他の人たちもその存在を知り、リーを模倣したり、コミック本を手に入れたりするようになりました。 父のレタリングがグラフィティの「バブルレター」に与えた影響も大きかったですね」
――今回の展覧会では、キャラクターが地下鉄の路線図(サブウェイ・マップ)の上に描かれていますね。観ていると、アートワークがNYCを移動しているような感覚を覚えます。制作する際、都市の中の動きや巡回といったことを意識していましたか?
「そうですね、ボーデ(Bode)のキャラクターは、グラフィティにおいて他のどのキャラクターよりもサンプリングされ、模倣されているんです。ヒップホップ・スタイルのキャラクター表現はすべて、父のコミックや、キャラクターの立ち方、大きな足といった描き方から来ているのです。父がこれらのキャラクターのために書いた、ストリートの過酷で悲劇的な物語は非常に「ストリートの知恵」に溢れていて、人々はそれを敏感に感じ取りました。つまり、グラフィティの美学そのものがボーデなのです。 世界中で、チーチ・ウィザードやリザード以上に模倣されたキャラクターはいません。ディズニーもシンプソンズも、ボーデには及ばないですね。だから、今回の展示は(グラフィティとコミックという)2つの世界を結びつけるチャンスでした。それを地下鉄の路線図に載せることにしたのです。今や地下鉄の路線図は、現在はすべてデジタル化されオンラインになってしまいました。ですから、実際の紙のマップはもう存在しません。おそらく今回が、本物の地下鉄路線図を使った最初で最後の展示になるでしょう。 今後、これを模倣しようとする人が現れたとしても、それは(路線図を)プリントしたものになるはずです。今回は、実際のマップの上に描かれた本物の作品なのです」

左から、マーク・ボーデ、本展のキュレーターでボーデの日本でのプロジェクトを手掛ける米原康正、ハーレム出身でグラフィティレジェンドのKlass(Chris Klass / Klassmatic)
――東京を走り回るチーチ(Cheech)のAI生成動画を見ました。あの動画、とてもいいですね。
「本当にいいですよね」
――AIによって、動画やアニメーションを通じてキャラクターに命を吹き込むという新しい可能性を感じますか?
「もちろんです。実は最初、私はAIに対して少し否定的だったんです。自分のスタイルが奪われ、他人に利用されてしまうのではないかと不安でした。 ですが、アレックス・ミッチェル(SHADOW GALLERY)があの動画を作ってくれたのを見て、一気に考えが変わりました。なんてクールなんだろうと。今は彼に作り方を教わりたいと思っています。自分たちで制作できるようにしたいんです。語るべき小さなストーリーがたくさんありますから。私や父の絵をAIに取り込んで、ずっと温めてきた物語を形にできればと考えています」
――これまでアニメにしませんか? というオファーはきっとたくさんもらっていますよね?
「はい、これまで、アニメーション会社から何度もアプローチを受けてきました。『Adult Swim』からは2回、ザック・スナイダー(『ウォッチメン』や『ジャスティス・リーグ』の監督)とユニバーサルによる『Cobalt 60』の映画化の選択権(オプション)の話もありました。彼は『Cobalt 60』のファンだったのですが、バットマンのような巨大なIP(知的財産)と比べるのといろいろと難しいので。銀行側も「『Cobalt』に6000万ドル出すより、またバットマンを撮ったらどうだ?」と言ってきますから。だから、今はAIの可能性に完全に期待しています」
――あなたはよく、「ボーデバース(Bodeverse)」という言葉を使いますが、説明をお願いします。
「私の父は素晴らしい独自の世界を創りあげる人でした。ジャック・カービーやメビウスのように、独自の宇宙をゼロから創造できる人物だったのです。 父の想像力は無限でした。私は父がすでに作り上げた宇宙をより具体化し、肉付けしていくことが自分の仕事だと思っています。AIのような新しい技術を使って、ボーデのキャラクターを現代的にアップデートし、革新し続けることが大切なのです」
――ストリートカルチャーやイラスト、コミックの世界を目指す若い世代へアドバイスはありますか?
「私は幸運にも生涯を通じてアートで生計を立ててきました。それが可能だったのは、活動を多角化させたからです。 アートワーク、コミック、父の作品の売買、タトゥー、そしてライセンス事業。中でもライセンスはとても重要です。これらを組み合わせることで生活が成り立ちます。一つのことだけをやるのは十分ではないですね。父が植えた種が大きな木となり、そこにはまだ世に知られていない何千ものキャラクターやアイデアが眠っています。時々、父が肩のあたりで「マーク、それはやるな」と囁いたり、夢に出てきて何かを教えてくれたりすることがあります。彼は非常に強いスピリットを持っていて、私はその声に耳を傾けるようにしています。私は父の最大のファンなんです。今、ニック・フランシスという監督が『The Book of Bode』というドキュメンタリー映画を制作しています。彼も今回日本に来ています」
――若い人たちへのアドバイスとしては、活動の幅を広げることが大切ということですね。複数のスキルを持つことで、お互いに良い影響を与え合うということですね。
「その通りです。グラフィック、デザイン、コミック、アニメーション。いろいろな分野に手を広げてください。一つの仕事だけで日々の生活をまかなうのが難しくても、他の仕事が助けてくれます。それらのスキルは互いに補完し合い、アーティストとしてあなたをより強く、多才にしてくれるはずです。私は昨年の3月に初めて日本に来て以来、この1年余りで5回も訪れています。日本ほど頻繁に訪れる場所は他にありません」
――「X-LARGE」や「X-Girl」ともコラボをしていますね?
「そうだね。以前は「Palace Skateboards」とも仕事をしました。Palaceとのコラボレーションはとても成功し、2025年の冬のわずか2ヶ月間で33万ドルの売り上げを記録しました。Palaceはロンドンを拠点に日本やシンガポール、NY、LAにもショップがあります。これは私たちのIPが今の時代にも受け入れられて、市場価値があることを証明しています。 私は日本の文化、そしてお辞儀に見られるような人々の敬意の表し方が大好きです。日本が本当に好きになりました」
【プロフィール】
MARK BODE(マーク・ボーデ)
マーク・ボードはグラフィティ、コミック、ストリートアート界を代表する存在です。 アンダーグラウンド・コミックのパイオニア、ヴォーン・ボードの息子であるマークは、ボードバースを拡大し、その反骨精神を生かし ながら、複数の媒体でその影響力を進化させてきました。 ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』、『コバルト 60』、そして彼自身のプロジェクトでは、カウンターカルチャーのユーモアと、何世代ものアー ティストを形成してきた特徴的な美学を融合させています。
壁や電車からファインアートギャラリーまで、伝説的なチーチ・ウィザードを筆頭とするマークのキャラクター は、世界のグラフィティ・カルチャーの定番であり続けています。 著名なタトゥーアーティスト、イラストレー ター、ミューラリストであるマークは、アンダーグラウンドコミックを現代ストリート・アートの視覚言語と結びつけ、ボードバースの境界を押し広げ続けているのです。
Instagram:@markbodeofficial
オフィシャルサイト:https://www.markbode.com/
writer: Atsuko Matsuda